2024年11月10日(日)に、「瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館]」で、これまでの民藝を学び、これからを考える会「民藝ひとまわり」が開催されました。
これは、民藝の思想を大切にものづくりをする「瀬戸本業窯」八代後継・水野雄介さんと「やわい屋」朝倉圭一さん、そして、「ヒトツチ」代表の南 慎太郎が運営する会で、2023年から年に1度、開いているものです。
中部エリアは“民藝”に馴染みが少なく、“民藝”が気になるという方の入口になったらと始まりました。
第1回は、「瀬戸本業窯」の敷地内に、「瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館]が誕生したことを記念して。そして、今回は『わからないままの民藝』(作品社)の出版を記念して、トークイベントを開催しました。
ゲストには本の読者を迎え、瀬戸市内の「喫茶NISSIN」4代店主の浅井梨歌ちゃん、「本・ひとしずく」店主の田中綾さん、デザイン会社「studio point」代表の澤田剛秀さん、そして、わたし「ヒトツチ」南 未来もおじゃまさせていただき、登壇させていただきました。
『わからないままの民藝』は、朝倉さんが民藝「を」語るのではなく、民藝「で」語ることに心を砕き、朝倉さんの私的な想いも込められた民藝にまつわるエッセイです。
そもそも民藝とは何か? 民藝という言葉が誕生したのは、今から約百年前の大正14(1925)年のこと。柳宗悦たちが、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にあると語ったことに始まります。
民藝の“素”となるのは、地域ごとの特色ある暮らし。失われて行く日本各地の「手仕事」の文化を案じ、近代化=西洋化といった安易な流れに警鐘を鳴らし、より良い暮らしとは何かを民藝運動を通して追求したのです。
現代に息づく民藝とは?
本書のなかに、いくつかの印象的な場面があります。ひとつは、現在の古民家で暮らす前に、高山市内のアパートで暮らしていた、ある夏の終わりのこと。朝倉さんは、自宅の窓を閉めようとして、目を奪われる。山も町も田園もすべてが淡い黄金色の夕日に染められていた。
そのとき「自分が深い関心を持っている民藝や町の歴史と、目の前の自然と僕らの暮らしが、すべてひと続きで繋がっていると腑に落ちた」という。そして、もうひとつ重大なことに気づく。
「暮らすには何の支障もない思っていたアパート室内の壁紙、フローリング風のやわらかな床、量産品のテーブルが、室内を染め上げ、あまつさえ僕の心まで染め上げた黄金色とは、まるで無関係といった様子で、混じり合うことなく居心地悪そうに存在していることに気がついてしまったのだ。(中略)『とりあえず』で選んだもの、それは美しい暮らしを営むことと何ら関係ない選択だった」(本文より)
けれども、そのなかでも美しいものがあった。それが、傷だらけの古いちゃぶ台と、そこに置かれた「瀬戸本業窯」の黄瀬戸の小さな湯呑みだった。
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そして、もうひとつは、とんかつを食べて泣いたお話。
朝倉さんは、この本を「かつサンドみたいな本」とたとえ、冒頭と最後にとんかつ屋さんの話が出てきます。
松本市まで通っていた金継ぎ教室のあと、お腹を空かせて、いいお店がないかと探していた。そのとき、暖簾がかかっていなければ、飲食店とわからないような佇まいだったものの、吸い込まれるように中へ。暖簾の先はまるで映画の中に入ってしまったかのようだったといいます。毎日丁寧に掃除をしていることがひと目でわかり、厨房をすっきりと整頓されており、キッチンはさながら舞台。
「お茶を運んできてくれた女性の店員さんいヒレかつ定食を注文する。大将と思しき初老の男性が肉を冷蔵庫から出して包丁を入れる。慣れた手つきで衣を付け、油に沈める。その横で若い女性が慣れた手つきでお盆を並べ、小鉢を用意して豚汁を注ぎ、ご飯をよそう。サクサクと気持ちいい音をたてて切り分られた、揚げたてのとんかく。それは、非のうちどころのない定食だった」(本文より)
あの日のとんかつは民藝だった、と。
民藝がある暮らし
このイベントの前には、朝倉さんが営む、岐阜県高山市の山間で民藝の器を扱う工藝店「やわい屋」へおじゃましました。
到着した先は、想像以上にのどかで、山に囲まれていて、目の前には田んぼが広がっていた。古民家を移築して、この場を育てながら営む住居兼店舗は、民藝の思想がそのまま形になったような佇まいだった。
とても居心地のよい空間だった。
居心地がいいと感じる理由は、きっと木や土など自然から作られたものが多いからなのかもしれない。
今回、本を読んだり、朝倉さんお話をさせていただくことによって、高尚な「民藝」から、“親しみ”を感じる「民藝」へと変わった。
朝倉さんに民藝に関する問いを投げかけると、答えは暮らしの話へと発展し、最終的に大事なのは家族という内容に着地していった。
柳が民藝美の源だと考えた「健康」を支えるものは、個々人々が自律的に生き抜く強さではなく、集団に属して、助け合って暮らす共助的な生活を前提としていたといいます。
地域ならではのわずらわしさの中で、助け合い、時に迷惑をかけながらという暮らし。そのなかで、家族は最小単位の共同体。その家族が心地いいと感じるなかで、民藝を暮らしに取り入れていけばいい。
民藝は、百年前に生まれた言葉なので、当然、時代背景がまったく違う。
けれども、柳が残したいと思い、地域のみなさんとよく話し合ったことが、今も継承され、残されている。それって、すごいことだなあと改めて想う。