創業約150年の老舗粘土会社が語る粘土づくり【土の声を聴く。「丸石窯業原料」編コラム】   

創業約150年の老舗粘土会社が語る粘土づくり【土の声を聴く。「丸石窯業原料」編コラム】   

9/28(土)から10/20(日)に、無印良品 名古屋名鉄百貨店で開催された「土の声を聴く from瀬戸」。展示ではおさまり切らなかった、深掘りコラムをお届けします。

今回ご紹介するのは、1874(明治7)年から続く、窯業原料会社「丸石窯業原料」。瀬戸で採れる、やきものの土として世界でもっとも優秀ともいわれる「蛙目」(詳しくはこちら)と「木節」をベースに、さまざまな原料をブレンドし、瀬戸のなかでもいち早く磁器用の粘土開発に取り組んできました

六代・加藤雄一さんと事業部長の加藤真吾さんに、粘土製造の工程を見せていただき、土との向き合い方や瀬戸焼のこれからについてのお話をお聞きしました。

磁器の製陶所から出発した「丸石窯業原料」

「丸石窯業原料」事業部長の加藤真吾さん(左)と 六代・加藤雄一さん(右)。

「丸石窯業原料」は、明治7年に初代・加藤石兵衛さんが、“石もの”と言われる磁器のうつわを製造する「丸石製陶所」から出発しました。

「石兵衛さんが生まれたのは、幕末だったんだと思うんですけど、当時は陶器が本業。これから磁器へと移るから、 土ものと呼ばれる陶器は長男、弟の石兵衛に“新製焼”をやらせようとしたんでしょうね。だから名前に『石』がついたんじゃないかな」

と六代・加藤雄一さん。

「石兵衛さんは、かなり真面目な方だったらしく、 ものづくりも一生懸命やり、経理もしっかりしたので、二代の時に大きくなったと。 けれども、三代になると、家業には熱心ではなく、長屋の経営へ。今で言うと、不動産投資ですね。

四代で私の祖父・加藤高福(かとう・たかふく)とは折り合いが悪かったらしく、ものづくりなんかするな、と言っていたそうなんです。とくに昭和2年に、 1年間ものが売れない昭和金融恐慌が発生していたことが大きかったようです。戦争の足音がどんどん近づき、せっかく作っても召し上げられてしまう。そういうこともあったそうですね」

1950年頃、まだ工場ができて間もない頃。左上は高福さん。

ところが高福さんは手先が大変器用で、ものづくりが得意だった。戦時中は、通称・零戦の前に作られた九九式艦上爆撃機の設計で表彰されるなど、機械や設計が得意だった。

終戦後は家業を継ぐも、当時の窯屋はとにかく多くのひとが働き、彼らを束ねることが親方としての仕事。けれども、それが苦手だった。

「機械に強くなれば原料屋はできる。ということで、1947年に原料屋を始めたのが祖父の時です」

それ以降「丸石窯業原料」と名前も変え、陶磁器の製陶所から磁器用の粘土製造を仕事としていきます。もともと瀬戸で磁器用の粘土をいち早く開発し、朝鮮半島など海外への販売網を持っていたほどの大きな窯元であったこと。そして、高福さんのものづくりの情熱や知識から軌道にのっていきます。 

磁器の粘土はどうできる?

それにしても、一体どうやって磁器の粘土をつくっていたのでしょう。
陶器は土もの、磁器は石ものといわれ、有田焼などの磁器の器には陶石が使われています。

けれども、
残念ながら瀬戸には「陶石」はありません。
そんな素朴な質問を投げかけてみると、雄一さんが粘土先生となって、いろいろと教えてくださいました。

「地球上において粘土が発生する仕組みから説明しますね。マグマは、地下深いところで岩石が溶けてできた、高温・液状の物質です。マグマはそう簡単には噴火しないです。山のなかで押し上げて押し上げて、噴火する前に中で固まります。これが、ぼろっと地表に出てきたのが、花崗岩なわけです。そして、この花崗岩が落ちて、風化してできたのが長石です。この長石がさらに風化して流れてきて、溜まったのが粘土です。

海へ流れていってしまうと、もうつかまらない。 けれども、瀬戸・美濃エリアは、東海湖という琵琶湖の6倍もあったという湖があったおかげで、とどまった。そんな地球の営みの中で粘土ができました。粘土が出るということは、自然とその山の近辺でやきものに必要な大体の原料が揃うんです」

これらの原料は何百万年もの時間をかけてできた奇跡の産物。
瀬戸近辺では良質なものが採れるのです。けれども残念ながら、陶石は瀬戸では採れませんでした。そこで周辺にある原料をブレンドすることによって、磁器の粘土を生み出し、完成した磁器の粘土を“プロダクト”として販売開始したのが「丸石窯業原料」なのです。

粘土づくりの過程

こちらが鉱山で採ったままの原土。

「このままでろくろが挽けるか? というと、挽けません。まずは不純物を取り除く、水簸ということを行います」

ここからは、工場担当の真吾さんにご案内いただきました。

「最初に原土を溶かします。大きなホッパーで、まずそこに粘土を入れて、ある程度ほぐします」

  ホッパーの中でほぐされ、大きな塊がなくなります。この原土を床下にある攪拌機に入れ、水と混ぜ合わせて溶かします。

「原土の時点では、粘土や砂などが混じった状態で、そのままで使えないんです。亜炭や木くずなどのゴミを、大きめのふるいで取ります」

巨大な「分級機」によって、水に溶けた原土に含まれる粘土分、珪砂、キラと呼ばれる部分を分けていきます。丸石さんで、もっともほしいのは、粘土分です。

蛙目の粘土分は、形状記憶装置のような役割を果たし、これをすこし入れるだけでも、とても成形しやすくなるのです。

分級機では、左側にある管から攪拌機で水に溶けた原土を吸い上げ、ぐるぐると回りながら、珪砂を途中で排出します。

「仕組みとしては、バケツに砂が混ざった水をどんどん入れると、砂は沈んで、あふれ出るのは水ですよね。その水の部分に含まれるのが粘土分。砂は珪砂として、ガラス原料で使われます」

 分級機が仕分けして、排出された珪砂。

溜まったものは、粘土を調合するときの原料として使われます。

珪砂が排出された後、キラも同様に排出されます。これはあまり使われません。

攪拌機から、砂、キラが取り除かれた、水に溶けた原土だけが次の工程へ。中央の管から泥水が流れていきます。

管を通って、プールのような水槽に溜め込まれます。水に粘土分が浮遊している状態のため、しばらく放置して、粘土分を沈降させます。

蛙目粘土以外の原料もまぜて、調合する

陶器の場合は、ほぼ蛙目でも陶芸家がろくろがひけるような(練土)として使うこともできるのですが、磁器の粘土をつくる場合は、磁器には水を通さないという特徴があるため、ほかにも粒子を整えた原料を加える必要があります。

こちらは湿式の粉砕機であり、原料を混合する「ボールミル」。ここでは、蛙目以外の長石類といった原料を砕き、さらに、先ほど工程をお伝えした水簸蛙目を混ぜ合わせ、磁器の粘土にしていきます。

こちらは、焼いた時に溶かす力が加わる「瀬戸長石」。豊田市の小原町で採られ、瀬戸で水洗いされた、長石を多く含んだ原料。これは、粘土が白くなるカオリン。残念ながら、日本では採れない原料です。カオリンは、カオリナイトという鉱物を主成分とする粘土で、中国最大の陶磁器産地である景徳鎮近くの高嶺(Kaoling)という産地から発掘され、古くから用いられていたことから、その名がついたと言われています。

こちらでは中国をはじめ、ニュージーランド、ドイツなどから仕入れています。耐火度がかなり高く、鉄分が少ないので、まっしろに焼き上がります。 

 こちらは天草陶石です。

「ダイヤフラムポンプ」という機械で、混ぜ合わせた粘土を吸い上げ、余分な水分を絞る「フィルタープレス」へとつなげる。

粘土を絞るフィルタープレス。絞り終えたら、完成です。「丸石窯業原料」では、約10種類の粘土をつくっています。これが全国の陶芸教室ややきもの関係の学校、窯元、陶芸家などにとても広くシェアされています。

原料と向き合う

「丸石窯業原料」で、諸外国のカオリンを早くから仕入れるようになったのは、1970年頃のお話です。その仕入れは想像していたよりも早く、すこし驚きます。

「相手は天然資源なんで、品質を保つためにですね。その頃から、研究室という名の品質管理現場があって、 小さな窯もあるので、色味の試験をして開発しています。ただ、海外の原料を入れたら瀬戸焼じゃない。そう言われるのを恐れて、当初は黙ってたらしいですね」

雄一さんが中学生だった、30年ほど前のこと。輸入原料を仕入れたり、製造も海外と移っていった時期。教室で先生から家業の仕事のことを聞かれるのが嫌だったという。

「雄一、このやきものの原料はどこからとっとる?  と聞かれ、海外から輸入した原料と言っていいのかためらっていた少年がいるわけですね。何がどう親の仕事に影響するかわかんないですからね」

けれど、それも「古い話です」と雄一さん。
時は流れ、全国の産地でやきものに適した土が採れなくなってくると、原料がどこで採れたのか? といったことは業界内で薄れていき、完成品をつくった産地で「何焼き」が決まるようになっていった。

土は粘土になると、見た目で中に何が入っているのかわかりづらい。
それゆえ、お米や野菜といった食材のように「どの産地で採れたのか?」ということは注目が集まりづらいのかもしれません。

「瀬戸焼」のこれから

 やきものに適した蛙目土は、天然資源のために減ってゆく。日々、原料と向き合う事業部長の真吾さんは、どう考えているのでしょう?

「天然原料なので、無限にあるものじゃない。けれど、うちは開発で乗り越えられると考えています。原料自体の調合自体をアップデートして、今までと品質を 極力変えないようにしていく。だから、完全になくなる、という心配はしなくてもいいかなと。

ただ、みんなでちゃんと向き合い、正しい情報をしっかり共有し合う必要があるのかなと思います」

そして、ちょっと耳の痛いお話も。

「瀬戸はやきものの町と言ってるけど、残念ながら、実際にはそれでは成り立ってない町ということは、もう少し自覚しなきゃいけないと思います」

瀬戸はどんな町? と聞かれれば、当たり前のように「やきもの町」と答えてしまう。産地として長い歴史を持ち、文化はもちろん残っている。けれども、出荷量からみる現実は、産業としては厳しいという。

雄一さんは、これからの会社としての方針をこう語る。

「うちのルーツとして、磁器の粘土が安定供給できるうちは、もちろん続けていきます。けれども、 最終的に生き残っていくのは、伝統産業としての食器や人形ではないのかなと。
これだけの工場のスペースを使って、採算性の合うものは。今、生き残ってるのは、いわゆる瀬戸焼とは違う陶磁器の粘土シフトされた会社で……」

とお話を聞いていると、
「やっぱり、悲しそうな顔をする! 伝統産業をやってほしいのはわかるんです」

とズバッと指摘され、ハッとする。
きっと無意識に、瀬戸焼のための粘土をつくる会社でいてほしい、そんな勝手な想いが顔に出ていたのでしょう。

けれども、商売としては、ある程度、規模を大きくしないと、工場が保てず、潰れてしまう。瀬戸にある窯業(ようぎょう)関係の工場は、戦後の大量生産で求められ、つくられた広大な敷地の工場が多く、ひと目見て、大量につくらないと、商売が成り立たないことが伝わってきます。

粘土も量をつくらなければ、手に届く価格で提供できないのです。減らせばいいというものでもない。

瀬戸焼に使う磁器の粘土づくりは、会社としてのシンボルとして残し、ほかで稼ぐ。
「伝統工芸は大切に残していくものであり、これで大きく稼ぐものではない」

そう雄一さんは語ります。

「丸石窯業原料」では、豊田市にも工場も持ち、粘土づくりのノウハウの延長線上に、生ゴミに土をふりかけ、土の中に入れると土化を促す環境セラミックス製品、卵の殻や瓦などリサイクルできる原料を粉砕する委託品粉砕事業も展開しています。時代が移り変わり、求められるものも変わるなかで、瀬戸焼用の粘土販売を継続されています。

「僕が意地でも粘土づくりを続けているのは、産地で積み上げてきた高い技術が失われるから。そのノウハウは、例え合併、買収されてでも残していかなきゃいけないと思っています」

およそ150年前、瀬戸にある原料でどうしたら磁器の粘土がつくれるのか? を最前線で開拓し、今もこの先を考えながら進む「丸石窯業原料」。技術の継承への想いの強さを感じた。

【土の声を聴く。連載紹介】

「土の声を聴く from瀬戸」蛙目粘土と展示への想い

産業廃棄物にしない。土のリサイクルを考える。【土の声を聴く。「双寿園」編コラム】

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「未来の人に土を残したい」【土の声を聴く。「瀬戸本業窯」編コラム】

原土から粘土へ。【土の声を聴く。「加仙鉱山」編コラム】

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