9/28(土)から10/20(日)に、無印良品 名古屋名鉄百貨店で開催された「土の声を聴く from瀬戸」。展示ではおさまり切らなかった、深掘りコラムをお届けします。
今回、お伺いしたのは、1951年から続く、干支や雛人形などの陶製人形をつくる人形メーカー「瀬戸陶芸社」。“白雲”という粘土を使い、陶器製の人形をつくっています。陶製人形に使われている土は一体どんな粘土なのでしょう? 瀬戸での陶製人形づくりの歴史とともに、お届けします。
「瀬戸陶芸社」とは?
「瀬戸陶芸社」は、1951年からずっと陶製人形づくりひと筋です。
社長自らがイメージしたものや社内デザイナーが原画を描いたものを原型師が原型におこし、型をつくり、焼成して、絵付けまで、すべて職人たちによって手でつくられています。
(詳しくは、こちらの記事からどうぞ)。
2020年に、オリジナル郷土玩具ブランドの「玩具工房」が誕生し、定番商品のほか、毎年干支のシリーズが登場しています。
今回、展示でお世話になった「無印良品」による、毎年お正月に登場する「福缶」でも、登場しています。
いわゆる“土人形”と呼ばれるもので、生地に陶器用絵の具で絵付けが施されたものです。けれども、多くの方がイメージされる型に粘土をあてて、手おこしするようなものとは、少し作り方が違います。
その特殊な歴史とともに、お伝えしたいと思います。
瀬戸での人形づくりの歴史
瀬戸で人形づくりがはじまったのは、明治時代中期の頃です。
招き猫、稲荷狐、福助といったものの生産からはじまり、明治36(1903)年に、瀬戸市内で床屋を営みながら、発明狂でもあった加藤佐太郎が、水に浮かぶ陶器玩具を発明します。
中をくり抜いて、軽くしたので、浮くというものだったのですが、当時は、そんなこと思いつく人がいなかった。
その発明を知り、“セト・ノベルティ”の元祖と呼ばれる山城柳平は、奉公先の「丸力商店」で働きながら、時間をつくって見に行き、「こりゃあ面白い」と何度も水に手を入れ、浮かぶ陶器を水の底へ押さえたといいます。
翌年には取引窯の伊藤金次郎が生産を開始。それを見本として受け取り、大阪の商人に見せると、「ほほう、おもしろいかもしれん」と、とんとん拍子で話が進み、一気に全国区で人気となり、銭湯の浴槽でこの金魚が浮いていたといいます。当時は、ブリキ製の玩具が多かったため、美しい形と色合いが親たちの目も引いたそうです。
とはいえ、瀬戸では陶器の食器づくりが王道であり、玩具や人形づくりの伝統はありません。けれども、柳平は玩具に対して熱い想いを抱え、丸力の主人がご機嫌のときを見計らい、玩具にも手を伸ばすように進めます。
それから10年で玩具類の草分けとなり、一番番頭となった柳平は全国にその名を轟かせ、「山城龍平商店」(のちの丸山陶器)として独立したのです。
大正時代初頭になると、アメリカではドイツ産の幼児のかわいらしいビスク人形が大人気でした。そこに目をつけたのが、輸出商社の「モリムラブラザーズ」。洋食器の世界ブランド「ノリタケ食器」の前身です。
明治時代には、アメリカで需要があった洋食器を、瀬戸で石膏型を使ってつくり、輸出をしていました。当時は円安だったため、アメリカから見れば、安くて品質もよかったのです。けれども、洋食器の需要が次第に落ち着き、次の一手に、人形に狙いを定めたのです。
そこで声をかけた人物が、玩具に情熱を注いでいた、山城柳平だったのです。第一次世界大戦(1914-1918)が勃発し、最大の産地・ドイツからアメリカへの供給が途絶えたタイミングで、瀬戸産のビスク人形を売り込むと、飛ぶように売れた。
そこで大量の注文を受けるようになり、その後、さらに技術の進化を遂げ、量産タイプから一体何十万円もするような高級な人形づくりまで、基礎が形成されました。
その後、第二次世界大戦にアメリカ市場への輸出は閉ざされたものの、戦後になると、復活。とくに1960年〜1970年にかけては、世界でも有数のノベルティ産地となっていきます。しかし、そこに陰りが出たのは、1985年に「プラザ合意」が締結されたこと。
それまで1ドル360円だったものが70円台まで円高が進み、多くの事業者が事業を転換せざるを得なくなります。続ける製陶所も、安く生産できる海外へと拠点を移していったのです。
けれども「瀬戸陶芸社」では、京都の伏見人形づくりの依頼を受けて出発した製陶所で、国内需要に絞っていたため、生き抜いてこられたのです。
軽くて、まっしろ。人形づくりに最適な粘土“白雲”
さて、こんな壮大な歴史のなかで生まれた「セト・ノベルティ」。人形をつくれるようになった背景には、「粘土」の開発がありました。
「白雲は、昭和 6 (1931)年に旧国立陶磁器試験場で研究開発された、白雲石(ドロマイト)を使った日本初の陶器の粘土で、昭和 20 年 代初期に瀬戸で製品化に成功しています。特徴は絵付けしやすいように白く、発色がよいこと。加えて、運ぶ途中に割れないよう、非常に軽いことです」
と語るのは、「玩具工房」プロデューサーの水野雄介さん。
この粘土が、現代でもとりわけすごいのは、軽いと関税も安い上、緩衝材のミラーマットにくるむ必要もなく、紙箱に入れて、そのまま出荷できてしまうこと。
「瀬戸陶芸社」では、粘土は瀬戸市内の品野エリアにある土屋から仕入れています。白雲の原料は、白雲石、平木陶石、珪石、そして、瀬戸産でおなじみの蛙目粘土と形をキープする力が強い木節粘土が使われています。
開発された当初の標準的な配合は、白雲石30%、大峠陶石 47%、木節粘土 23%前後でしたが、現在では、使用する原料がちょっと増えています。
その理由について聞いてみると「天然原料のため、原料によって大きくブレるため、1個あたりのパーセンテージを減らして、安定供給するために開発してくださっているそうです」とのこと。
白雲の粘土は板状で届き、水を混ぜて攪拌して、泥漿(でいしょう)の状態で石膏型に入れて、使います。
石膏は水分を吸う性質があり、外側の泥漿から固まります。乾いた泥漿が必要な厚みになったら、型を逆さまにして、余分な泥漿をガバッと捨てます。そのことから“ガバ鋳込み”とも呼ばれます。
固まったら、型を外します。この時、粘土の色はグレイです。けれども、電気窯でおよそ1,030度で焼くと、真っ白になります。
そして、この真っ白な生地に、絵付けの職人たちが陶器用の絵の具で絵付けをして、完成します。
最後に
瀬戸は蛙目、さらには、木節という優秀な粘土が採れることから、器を長く作ってきました。
そのなかで大量生産が進み、明治34(1901)年には、「製品の統一と品質の管理は製土から吟味する必要がある」として、瀬戸の陶工たちと森村組が「原料貯蔵所」を設立して、磁器の土を研究・開発するなど、原料となる土のブレンドもどんどん進められてきました。
このセト・ノベルティに使われている「白雲」もまた、歴史のなかで生まれた非常に稀有な粘土である、ということが伝わったら、とても嬉しいです。
参考:
『輸出陶磁器と名古屋港』(中日出版)
『セトノベルティ匠ネットワーク』(瀬戸市地域振興部 ものづくり商業振興課)
※「玩具工房」のアイテムが気になる方はこちらからどうぞ。